〜百年亭の価値と魅力〜

 

百年亭完成図

『森を背に立派な寺院の立ち並ぶ歴史的な場所―』

初めて宍塚の地を訪れた時の第一印象です。実際にはそれらは民家の門と母屋の大屋根なのですが、当時全く知識の無い高校生にはそれらがすべて立派な寺院のように見えました。もうすぐ始まる田植えの清々しい情景と合わせて、その時の感動とそれらが民家だと知ったときの驚きは今でも強く印象に残っています。

百年亭の瓦屋根

里山と民家の関係

さて、かつて農村の生活が里山と密接に関係していたことは今では広く知られています。会発行の「聞き書き 里山の暮らし」を読むと、里山の存在がいかに生活の根幹を担っていたのかがよくわかります。


会発行の「聞き書き 里山の暮らし」とその続編


その中でも最も身近なものは食でしょうか。山は季節ごとに果実や山菜をもたらし、田畑では播種から成長そして収穫と、一年という単位でその過程が四季と合わせてわかりやすく循環し、日々の移ろいと味覚をもってその恵みを体感できます。またさわやか隊(里山の森を整備する会の方々)の皆さんを筆頭に年間を通して山の整備をされていますが、例えばそこから得られる薪も、目の前で燃える炎となり、その温もりも直に里山の恵みを感じさせてくれることでしょう。

一方で、生活の場となる民家についてはどうでしょうか。建物は一度建てると数十年、定期的な手入れをしながらであればより長い期間、変わらず目の前にあり続けます。そのため上記の食などのようなわかりやすい体験の機会に乏しく、里山との関係には意識が向きにくいのではないでしょうか。しかしながら何十年何百年もの間人間を雨風から守りつつ家格をも表した民家には、里山や地域の文化との密接な関係があるのです。


里山の麓にひっそりと建つ百年亭

少し話は逸れますが、かつて日本の山には現在と比較して松林が非常に多かったそうです。例えばかの有名な嵯峨嵐山の峰々も、戦前の日本画には多くの松林が描かれており(富田渓仙「嵐峡晴朗図」1930等)、現在とは姿が異なっていたことが窺えます。それはこの宍塚においても同様で、「聞き書き 里山の暮らし」には里山にいかに松の木が多かったか、その利用方法と合わせてたくさんの証言が残されています。大池の周りには松林が広がり(p39,52)、落ちた松葉は集めて燃料とし(p84,115)、成木からは樹液(松脂)を取る。細い松の木は間伐し、根まで掘り起こして薪とする(p85,続8)。そして樹齢30年を超える太い松の木は地元の木挽きが製材し、建築用材とされたのです(p20,39,115)。冬の暖を取る燃料が専ら薪であった時代、山を持たない人々は薪の入手に苦労することもあったといいます。そのような時代に建築用材となる大きな木材は、現在からは想像もつかないほど、大変貴重で高価なものでした(p続9,続29)。

このように里山の貴重な松の木は、民家の柱や梁、板材等、あらゆる建築部材となりました。その木材を筆頭に土壁や萱葺き等、民家を構成するほとんどの材料が身近な自然から供給され、そこに地元の職人が腕を振るったのです。こうして建築された民家は、移ろう四季の中でひっそりと、里山と生活の強い結びつき、そして地域の文化を色濃く体現しているのです。


百年亭の縁板も松材でできている


百年亭の歴史と構造

それでは、この「百年亭」とはどのような建物でしょうか。まず名前の通り建築から100年以上経っているといわれています。詳細な記録は無く定かではありませんが、登記簿の情報から昭和26年以前の建築であることは判っています。また小屋裏の丸太梁の手加工(ちょうな)の痕跡から、相当の築年数であることが伺えます。

当初は大きな屋敷の一角に建つ離れとして建築され、隠居後の住いか、もしくは来客時の座敷として使われていたと想像されます。地元の方の話によると、宍塚にある3つの書院の内の一つで、当時の地元の大工が手掛けたものとのことです。当初は土浦学園線の用地に建っていたため、道路敷設の際に曳家によって現在の位置に移設された経緯があります。道路敷設前の航空写真では解像度が低く確認できませんが、敷設直後の1975年の航空写真を見ると、現在の位置に建つ百年亭の姿を確認できます。

間取りは8畳2間に4畳間を加え、その2方に広縁が周っています。母屋と異なり建物としては小ぶりですが、当時の家格や用途からも装飾まで非常に手の込んだ作りとなっています。広縁はゆったりとして正面に全面開放できる大きな開口を持ち、幅広の床板、格子の細かな建具等も当時のものが残されています。特に長押の釘隠しや菱欄間、書院の造作等は、当時の職人の繊細な手加工が施されており、工芸品としても大変価値があります。


続き間にある繊細な菱欄間

桃をかたどった釘隠し

床板や梁などその部材の多くは松材でできており、築年数から考えても前段で書いたように当時の里山の木材を主に用いて建築されたと考えられます。小屋裏では10mにもなる一本の松の丸太梁が建物を東西に横断し、幾重もの丸太梁が巧みに組まれています。


松の丸太梁によって組まれた小屋組み

ところで、小屋裏には2m程の長さのある矢羽が1本残されています。これは最近珍しくなりましたが(私自身経験はありませんが…)、矢羽は神道の破魔矢と同じ意味を持ち、鶴と亀2本の矢羽を用意して五色の旗と一緒に掲げ、上棟の儀式を行った際のものです。地域によって風習が異なるため、なぜ一本しか残されていないのか気になりましたが、その答えも「聞き書き 里山の暮らし」の中に記述がありました。「(上棟式の)後、鶴の矢を車につけて米俵を一つ積んで、大勢で大工を家まで送っていく。」(p87)もう一方の矢は棟梁の家に保存され、仕事の記念となったそうです。


小屋裏に残された棟上時の矢羽

百年亭の保存と活用

このように百年亭は、建物そのものの価値もさることながら、まさに里山の資源によって建築され、その豊かさと地域の文化を今に伝えるという意味で大変価値があります。この建物が里山と共に維持管理されれば、里山での体験の幅を広げ、長期的には歴史的資源にも成り得るのではないかと考えています。


現況写真と再生後のイメージ

先日は先行して下屋の解体と浄化槽の整備を行いました。上述のように曳家した経緯もあり、地盤の不同沈下や長年の負荷で建物が傾き、劣化が進んでいます。そのため将来的な幅広い活用法が考えられる一方で、まずは貴重な建物本体を健全化し、後世に受け継ぐことを最優先に計画しています。最近では古民家を購入・改修して住まいや店舗にする事例が増えていますが、それでも個人所有では様々な事情から維持が困難なことも多々あります。一方で今回は会の所有だからこそ、長期的な視点で保存活用を進められるという利点があります。

百年亭の整備が会にとっても集落にとっても価値あるものになればと、差し出がましいながら思っております。

(一級建築士 児玉理文)


 






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